スワロフスキー、ヴェルサーチェ、ジバンシィ、コーチ、カルバン・クライン、ディオール……。これらは皆、商品やウェブサイトなどで香港や台湾を中国の領土から外して表現したブランドだ。周知のごとく、10月には米プロバスケットボールNBA、ヒューストン・ロケッツのゼネラルマネージャーが香港でのデモを明確に支持するツイートをし、大きなニュースとなった。
抗議デモ開始から半年近く、24日の区議会選挙では民主派が地滑り的勝利を収めた香港。「一国二制度」の看板の下、少なくとも中国の一部であることは今さら言うまでもないが、敢えてそれを否定するような扱いをしたブランドは、香港の自由と民主主義を擁護する意図が果たしてあったのだろうか。
いずれにせよ、経済力と政府の愛国政策を背景に急激な自信を持ち始めた中国の消費者は、こうした動きに目をつぶらなかった。ネット市民を中心に非難とボイコットの掛け声は瞬時に広まり、ブランド側はあっけなく屈した。中国の2018年の輸入額は2兆1356億米ドル(約235兆円)で、世界第2位。その購買力は絶対的なのだ。
今の時代、ブランドにはかつてなく倫理や社会的責任が求められる。体制や価値観が異なる国で自由・民主主義社会に反する動きを黙認すれば、他国市場での信用を損ねる。逆にその論理を通そうとすれば、ほぼ確実に軋轢が起きる。倫理とビジネスの境界線はどこに引けばよいのだろうか。
ある国際的エージェンシーの東京支社長は、次のように話す。「ブランドにとって政治的に正しいかどうかは、論点ではないでしょう。いま我々は、かつてないほど目まぐるしく変化するコミュニケーション環境の中にいる。一般論で言えばブランドは政治問題に極めて慎重でなければならず、限りなくニュートラルでいるべきです。そしてコミュニケーションにおける一貫性が、消費者からの信用を得る上で鍵となる」。
「政治をつかさどるのはブランドではなく、政治家。そして政治家の決断の裏には、大抵ビジネス的な意図が隠されている。ブランドは特定の政治的立場を表明すべきではないとは言いませんが、政治がもたらす『結果』には敏感でなければならない。ほとんどのブランドはこうした意識を持っていると思いますが」。
アジア太平洋地域での勤務経験があるパブリックリレーションズ(PR)の専門家、ボブ・ピッカード氏は、「現代におけるブランドは真にグローバルなスタンスを取って、一つの国、一つの地域に向けた謝罪の影響がそこだけにとどまらないことを認識すべき」と話す。
「世界は今、親中国か反中国かで急激に二分化されつつある。ビジネスを保護するためにブランドが一方で正しい姿勢を取れば、他方では全く逆の結果になってしまう。これまでは西側企業が中国に媚びても、それほど代償は高くありませんでした。しかし今は香港での一連の出来事の影響で、北京に対する反感は北米などで急速に強まっている」
では、ブランドは具体的にどのような姿勢を取ればよいのか。「国家としてのシンガポールのようなスタンスがよいのではないでしょうか。両陣営に通じ、独立した概念を持ち、地政学的な枠を超えて自らの使命をよく心得ている。時には両者をうまく競わせて利を得る。駆け引きにも長じています」。
「時代は変わり、世界の消費者はますますグローバル市民となりつつある。そして、政府が解決できない課題にグローバル企業が取り組むことを期待しています。新たなグローバルコミュニケーションという認識が生まれつつある一方で、米国と中国という相反する『レンズ』がそれを屈折させていることも事実」
そして、このように結論づける。「倫理とビジネスの間に境界線はありません。倫理的に正しいビジネスこそが、最も高い業績を生むはずです」。
日本の大手商社で長年中国を担当してきたある幹部は、こうした意見に自嘲気味に反論する。「『倫理とビジネス』という議論は、中国においてはある意味ナンセンスだと思います。中国でビジネスをやりたい外資系企業は、総じてPRに注意して行動すべき。そして香港などの領土問題に関わるかどうかは、それぞれの企業が考えるべきことです。我が社は政治的な問題に絡んでビジネスをしているとは思わない。中国政府が明らかに人権抑圧的な政策を取っているのであれば、安倍首相のように『遺憾であり、冷静な行動を求める』という程度の声明しか出せないでしょう」。
また、別の大手商社幹部はこのように話す。「中国は経済に関して自由だが、政治(表現)に関しては不自由な二枚看板国家。私が担ってきたBtoBの取引からすれば、その点をわきまえて輸出入関連法令と外国為替関連法令へのコンプライアンスに傾注しています」。
学術界の意見はどうだろう。慶応義塾大学総合政策学部教授の国領二郎氏は、まず中国の歴史を理解する必要性を説く。「ひと言でいえば、『分裂と征服』に集約される。内部で分裂している間に、外部から攻め込まれるという図式がこれまで繰り返されてきました。香港も台湾もウイグルも独立を許したら、たちまちそれが全土に広がってしまう −− こうした中国が持つ恐怖感は、共産主義以前の本能的なものです。ゆえに、わざわざ虎の尾を踏む必要はない」。
そして領土問題に関しては、「あれだけ大量の血が流されて確定した第2次世界大戦後のレジームは崩さないほうが賢明。香港も台湾も中国の一部で、ただし民主主義によって統治されているという認識も崩さないほうがいいでしょう」。
その上で、中国におけるビジネスについては懐疑的だ。「人権や民主主義を否定するような中国の政策に対して今以上に批判が高まると、自由主義経済の基盤に乗って商売をしている西側企業は中国でのビジネスを断念しなければならなくなる可能性がある。非常に難しい局面だと思います」。
同志社大学大学院ビジネス研究科教授でグローバルマーケティングやイノベーションを専門とする須貝フィリップ氏は、「コアバリュー(中心的価値観)」の重要性に言及する。「ブランドとは企業やプロダクト、そして一人ひとりの個人にも直結するアイデンティティー。そして消費者からの真の共感を得るために、ブランドは体現するもの、象徴するものがなければなりません。それこそが、企業の存在意義とも言えるコアバリュー。ゆえにいかなる企業活動も、こうしたコアバリューを反映するものでなければならない」。
従って政治的な問題に関しては、「自社のコアバリューに関わってくるのであれば、明確に態度を表明すべきです」。
ブランドがある特定の市場の消費者と密接な関係を築きたいのであれば、当然ながらその消費者の感受性を理解する必要がある。だがその際にコアバリューから逸脱した行動が必要になるのであれば、「その市場を避けるか、コアバリューを変えるしかない」。
「現在の世界は二極化が進んでおり、その中でブランドは明確な価値観を打ち出さねばならない。そうしなければ、はっきりとしたコアバリューを持つ他のブランドに先を越されてしまいます。好む、好まざるにかかわらずブランドは自らが象徴するもの、しないものをきちんと表現する必要があるのです」
特定の問題に関して立場を表明すれば、価値観の異なる人々から批判を受けることはやむを得ない。「そうしたトラブルを避ける術もありますが、姿勢が曖昧だという批判を受ける覚悟が必要です。現代社会は過度と言えるほどに、すべてが密接につながっている。一つの市場で成功し、他の市場で消費者を失うことは避けられないのが現実。そうした事態に備え、マーケティングの責任者は普段から対策を練っておく必要があるでしょう」。
これらを考慮した上で、ブランドは「コアバリューを曲げず、それに忠実でいることが肝要」。中国で強いプレゼンスを放ちたいのであれば、「どうすればコアバリューに基づく活動で消費者の価値観を捉えられるか考える必要があります。コアバリューに反していながら『則っている』と主張しても、消費者はすぐにフェイクであることを見破るでしょう。売上を伸ばすためだけにポーズを取っても、結局は同じことです」。
(文:水野龍哉)