ヒラリー・クリントン氏はこの5カ月間、激戦州においてドナルド・トランプ氏を1億米ドル近く上回る広告費を投じてきた。同氏はマディソン街でも最高峰の広告会社を起用した。対価を得ることもなくクリントン氏に有利な広告を制作してくれる、実に良い仕事をする広告会社も、何社もあった。しかし、結果はご覧の通りだった。
2016年のアメリカ大統領選挙で驚愕の番狂わせが起こった。そして広告・コミュニケーション業界の幹部たちは、最善を尽くしたにもかかわらず「商品」が売れなかったという現実に直面している。
クリントン氏の敗因は何年も議論の的になるだろうが、メディア戦略の欠陥、データの偏重、そして要となるメッセージの中身の全てが、敗北を呼び寄せたといえる。
この選挙戦では、両陣営合わせて3つのスローガンが使われた。トランプ氏は「アメリカを再び偉大にする(Make America Great Again)」というレーガン元大統領の言葉を掲げ、対するクリントン氏は「私は彼女を支持します(I’m With Her)」と「一緒なら強くなれる(Stronger Together)」と訴えた。
ニューヨークのTBWAシャイアット・デイのCEO、ロブ・シュワルツ氏は「コピーライターの視点で見れば、この3つの中では『Make America Great Again』が一番」と評する。「明快で、野心的で、有権者が主役になっています。一方、『I’m With Her』は候補者自身が中心、『Stronger Together』は民主党のことを語っていますね」
自分本位のメッセージ?
大統領選で自分中心のメッセージを発信したというイメージが人々の記憶に残ってしまうとしたら、クリントン氏の支持者にとっては極めて不本意なことだろう。しかし同氏の敗因分析では、この点が既に何度も取り沙汰されている。
ハバスPRのCEO、マリアン・ザルツマン氏は「クリントン氏は人々に『ガラスの天井』を意識させ、トランプ陣営はバラ色の世界を売り込みました。『ガラスの天井』は結局、利己的な印象を与えました」と振り返る。
それはクリントン氏自身が成し遂げてきた実績に焦点を当てる結果となり、そんな上昇志向は親世代の話だと考えている若い有権者を不快にさせたのかもしれない。「ミレニアル世代は自分の母親と重なるような候補者を選びたくはなかったのです。クリントン氏もまた、素晴らしき新世界を共に切り開く仲間として、彼らをどう巻き込んだら良いのか把握しきれていませんでした」(ザルツマン氏)
クリントン氏の広告キャンペーンを手掛けた広告会社もまた、内向き過ぎたのかもしれない。一部、素晴らしい出来栄えで説得力のある広告もあったが、シュワルツ氏はターゲットを誤っていた可能性を指摘する。「関わったマディソン街の“一流”広告会社全てに問いかけたいですね。誰に向けてメッセージを発信していたのですか?と。競合他社と張り合って? 広告賞を意識して? 視聴者がどう受け止めるか、真剣に考えたのでしょうか。受け手は誰なのかを理解した上で仕事をした広告会社が、あったようには思えません」
もちろん、広告だけがクリントン氏の敗因だった訳ではない。「商品」が出来上がると、広告にできることは多くない。クリントン氏という「商品」は高い資質を持ちながらも、これまで何十年にも渡って積み上げてきた政治家としての過去と有権者の不信感を背負って、選挙戦に臨んだのだ。
広告費では愛は買えない
エデルマンのCEO、リチャード・エデルマン氏は「見方によっては、クリントン氏の莫大な広告費がそうしたマイナス面を余計に際立たせてしまったとも言えます」と語る。「この選挙では、大々的な広告活動が有権者の信頼を勝ち取るのでなく、逆に、有権者を金で買おうとする行為と受け止められました。対照的にトランプ氏は、選挙戦を通して一貫してソーシャルメディアを使い続けました」。けんか腰の発言を繰り返したことで、不動産王は自らに足かせを着けてしまったかもしれないが、広告費を比較的小さく抑えた点とツイッター中心の展開がトランプ氏の特徴となり、嘘偽りのない挑戦者の声というイメージを形成していった。
「まるで前時代的な『広告で攻める』アプローチと、新しいソーシャル時代の対比を見ているかのようでした」とエデルマン氏。
だからといって、トランプ氏のメディア戦略が単純だった訳ではない。6月にニューヨークタイムズのメディアコラムニストであるジム・ルステンブルグ氏は、「トランプ氏はとても洗練されているとは言い難いが、基本的に『コンテンツを量産する制作スタジオ』を運営しているようなものだ。対するクリントン氏は、従来型の広告に依存している」と分析している。広告界はコンテンツ制作に軸足を移して久しいにも関わらず、いざ大統領の座を争う場面では、古いやり方に引き戻されてしまった。このことは業界の汚点として、この先何年も残るだろう。
また別の面で、今回の選挙活動に古さを垣間見た者もいる。分析とターゲティングのプラットフォームを提供するアドテク企業イールドボットのCEO、ジョナサン・メンデス氏は、「クリントン陣営は私が思っていた以上に、デジタルの力を過小評価したようです」と話す。「オバマ大統領の2期にわたる選挙活動と比較すると、驚くべき違いがあります」
また、ビヨンセやジェイ・Zのようなセレブリティーの力に頼ったことも、いわゆる「エリート」に対する不満を募らせて既に心が離れていた有権者たちの、さらなる反感を煽った可能性もある。「トランプ氏の支持者を刺激して、活性化してしまったことは確かです」とエデルマン氏は語る。
選挙予測の面でも、今回の選挙からは学ぶべき点があった。ほとんどの事前予測ではクリントン氏の勝利が確実視されており、中西部から北東部にまたがる「ラストベルト(斜陽化した工業地帯)」が立ち上がってトランプ氏をホワイトハウスへと押し上げようなどとは、誰も思い至らなかったのだ。高度化した選挙予測のテクニックや計算モデルにもかかわらず、専門家たちは全体像を見失うという初歩的なところで躓いている。
今回の選挙を踏まえ、広告業界が肝に銘ずることがあるとシュワルツ氏は話す。「とにかく有権者が主役という、大きな学びがありました。消費者が主役、これに尽きるのです」
(ダグラス・クエンカ 翻訳:鎌田文子 編集:田崎亮子)