2015年末に起きた電通の新入社員自殺が労災認定を受けたのは、昨年9月末のことだった。以来、電通は“ブラック企業”としてその名を内外に轟かせてしまった。昨年末には、日本の労働問題に取り組む弁護士やジャーナリストたちがその1年の「最も悪質な企業」として認定する「ブラック企業大賞」まで「受賞」したのだ。
だが、この手の非公式の賞は話題作りに貢献しても、全体像は捉えていない。社員を死に至らせるような労働環境を改善できなかったことは確かに電通の落度で、厳しい批判を浴びて当然だ。しかし、もし電通が正真正銘の悪徳企業なら、今のような高いスキルと誇りを持った人材を惹きつけ、育て、そして維持することは不可能だろう。全ての社員が自分の役割に満足はしていないだろうが、それはどこの企業でも同じことだ。
現実には、電通は単体の企業ではない。企業家精神に満ちた複数の会社の集合体であり、広告に直接結びつこうとつくまいと、あるいはビジネスに良い結果が出ようと出まいと、信頼と才能のある人々にはその専門分野を発展させるチャンスを積極的に与える組織だ。個人の成長を鑑みてこれほどの自由を与える広告代理店は、世界のどこを見渡してもほとんどない。
と同時に、電通は日本社会の象徴とも見なされている。表面上は常に平穏でありながら、内では核心的な問題への取り組みを続けているのだ。新入社員の自殺は悲劇だったが、過度な重圧を受ける労働環境というのは広範な国家レベルの課題の1つにほかならない。政府は今年、国内の自殺率を「危機的状況にある」と言明、10年以内にその率を3割減らすと公約した(なぜ3割という数字を決めたのか定かではないが、とりあえず国の取り組みは始まった)。
電通の知名度を考えると、当局が同社を引き合いに出し、この件が公開審理になってしまうのは致し方ないことなのだろう(過労死でこのような事態になるケースは滅多にない)。それでも山本敏博・現社長が、自己の管理下で起きたのではないにもかかわらず(同氏はこの1月に社長に就任した)、組織の不正行為と欠陥を認める心構えでいたのは明るい材料だ。既に起きてしまったことは変えようがないが、組織内の浄化への取り組みは今後の課題の改善に役立つだろう。
肝心なのは、電通がこれから本当に行動を取れるかどうかだ。今回の社員の自殺は初のケースではなく、電通は過去においてその実質的対応を怠った。これまでのところ、問題解決のために労働時間の削減ばかりが取り沙汰されているが、それだけでは十分ではない。決められた時間に消灯することや、1週間分の仕事を4日間に詰め込むことだけが解決策ではないのだ。非効率性を改め、仕事量をより公平に分配することも欠かせぬ要素であり、クライアント企業も過度な要求を減らすという重責を担っている。その上で、既に組織の一部で確立されている「自主独立」の文化を広げていくべきだろう。
そのために必要なのは、管理職にある全ての人々が責任を持って行動し、自分の部下に対して義務を履行することだ。何よりも社員の「幸せ」を最優先に考えるべきなのだ。今回の事件でも明らかになった「いじめ」に対しては、ゼロトレランス方式でのぞむべきだろう。そして業務面では、個人の興味と才能に見合った仕事を社員に割り当てる努力をしなければならない。あるプロジェクトに情熱的に取り組む社員が残業を厭わないというのであれば、それは個人の自由だ。だが目標を達成するため、超過勤務が必須条件になるようなことは決してあってはならない。
こうした解決策は、他の多くの広告代理店やPRエージェンシーにも当てはまる。これらの企業は過重労働問題が取り沙汰されたとき、奇妙に沈黙を守っていた。それぞれの労働環境は決して完璧ではなかったはずなのに、どこも改善を明言しなかったのだ。海外企業にも同様のことが言える。それを端的に表す例が、この8月、シンガポールのあるグローバルエージェンシーでクリエイティブを務める匿名の人物からCampaignに送られてきた電子メールだ。この人物は、クライアントからの容赦のない要求や上司の優柔不断さ、そしてブリーフに積極的に取り組むために時間外勤務を強いられることなどへの不満を書き綴っていた。実に身近な話ではなかろうか。
電通への法的措置が決定しつつある今、同社はその資質を最大限に明示し、日本社会、そして願わくは世界の広告界を良い方向へと導く範を示すべきなのだ。
(文:デイビッド・ブレッケン 翻訳・編集:水野龍哉)