35歳で引退し、農場で暮らす夢を追いかける。
まるで夢物語のように聞こえるだろうか?しかし最近、お金よりも時間に本質的な価値を置くFIRE(経済的自立、早期リタイア)の実践者が増えている。そして、そうした人々にとって、このような生き方の変更は極めて現実的だ。
FIREは、出世競争から逸れた人生を歩むためのガイドラインを提示し、ムーブメントを巻き起こした、ヴィッキー・ロビン氏の著書がルーツだ。基本的なコンセプトは、収入に占める貯蓄の割合を高め、さまざまな資産に投資し、現在の生活費に基づいて早期引退に必要な総額を計算するということだ。FIREの実践者は生活実態によってそれぞれ分類されている。「ファットFIRE」は、経済的な余裕を持ち、節約を考慮することなく早期のリタイアを目指す人。「リーンFIRE」は質素に暮らすことで、早期リタイアを目指す人。そして、「バリスタFIRE」はパートタイムの仕事で収入を補う人だ。
従来の大量消費主義から脱却するという思想は、他のいくつかのムーブメントにも共通するものだ。「アーニング・トゥ・ギブ(寄付するために稼ぐ)」のコミュニティでは、収入のごく一部で生活し、残りの大部分を慈善事業に寄付することを目指している。「週4時間労働」運動は、老後まで引退を先延ばしせずに、生涯を通して「ミニリタイア」を繰り返す、ミニマルなライフスタイルを提唱している。こうしたムーブメントの中心にある哲学は、生活をダウンシフトし、さまざまな目標のためにお金を節約するということだ。
これらのムーブメントに共通する価値観は?
生活のダウンシフトは、一見すると、資本主義的な価値観や生き方からのドロップアウトだ。しかし、そのニュアンスを汲み取ると、その根底にあるより深い哲学が見えてくる:
時間の価値
人生を一連の時間投資と捉えることで、お金に対する価値観が変わる。例えば、携帯電話の新機種への買い換えは、1カ月の時間(購入額を得るのに要した労働時間)に置き換えられる。ものを買うことと、それを得るためにかかった時間を直接比較すれば、時間の機会費用が理解でき、より有意義なことに、時間を優先できるかもしれない。例えば、新しい携帯電話を購入する代わりに、1カ月分の仕事の時間を使って本を書くという選択肢もある。ロビン氏は読者に、「もしお金を稼ぐ必要がなかったら、あなたはその時間を何に使うだろうか?」と問いかけている。
若さの利点
週4時間労働の思想は、旅行や趣味を楽しむエネルギーが有り余っている若い時期を仕事に没頭して過ごし、65歳以降のリタイアまで先延ばしにするという考え方に、疑問を投げかけるものだ。また、FIREの投資哲学は、人生の早い段階で投資ポートフォリオを構成し、複利の効果を最大化することを提唱している。
「喜び」につながる支出
慈善事業に寄付をするためであれ、早期にリタイアするためであれ、収入の大部分を貯蓄に回す人々は、むしろ積極的に支出することを選択する。お金について深く考えるようになったことで、喜びをもたらす商品や体験に、より積極的に支出するようになったという声もある。例えば、昇給したので、広い部屋に引っ越したという喜びはすぐに失われてしまうけれど、同じ金額を南米旅行に使うなら、それは一生忘れられない思い出となるはずだ。
伝統的な生き方からの脱却
生活のダウンサイズを選択した人はしばしば、時間をどのように使いたいかを深く考え、意識的に人生を変えていくようになる。熟考すべきは仕事とお金だ。仕事について熟考した結果、9時5時のオフィスワークを辞めて、起業したり、フリーランスになったりすることもある。将来の収入が保証されていない場合、お金に関する熟考とは、支出や資産が今後どのように変化するかを考え抜き、何にお金を使うべきかをより意識的に選択するということだ。
この傾向はブランドにとってどのような意味を持つか?
パンデミック後、社会全体でスローライフや節約へのシフトが起きていることからわかるように、生活のダウンシフトの根底にある哲学は、すでに幅広い人々に受け入れられている。これらの価値観を読み解き、活用することは、ブランドにとって十分に価値のあることだ。そのためには、従来のブランドと消費者の関係、つまり、お金と商品の交換という単純な関係を根本的に見直す必要がある。ブランドは有形の商品だけではなく、そこに含まれる無形の価値観も提供する必要があるのだ。
重要な価値観は以下の通り:
高品質な商品を低価格で提供する:消費者は限られた予算内で必要な品を手に入れるため、時間と労力を費やして掘り出し物を探している。イケア(IKEA)はこの分野に力を入れており、初回購入者に対しては、かなり手頃な価格で家具を提供している。期間限定の割引や消費者の努力が必要な割引(クーポンを何枚か集める)などといった手段も考えられるだろう。
人々の心に響く価値観を伝える:価値観を重視したアプローチでは、ブランドがどのようにメッセージを構成し、消費者との関係をどう構築するかということが重要だ。例えば、自動車メーカーの場合は、道路を自由に走行する爽快感という価値観だったり、休暇中に地方を旅する安価な移動手段という価値観だったりするだろう。そういった価値観をコミュニケーションの中心に据えるということだ。
長持ちする商品を提供する:生活のダウンシフトはサステナビリティ(持続可能性)のムーブメントとも重なる。消費者は長持ちする商品であれば、価格が少々高くても喜んで購入する。パタゴニア(Patagonia)はこのムーブメントをうまく捉えたブランドだ。古いジャケットを下取りに出せば、新しいジャケットを購入するためのクレジットが手に入るというプログラムを提供している。
善行を成功に:アーニング・トゥ・ギブのコミュニティは収入の大部分を慈善事業に寄付するため、ライフスタイルを更新している。ブランドは、商品購入と慈善事業への寄付を結び付けたり、恵まれないコミュニティに商品を配ったりすることで、この価値観を積極的に取り入れることができる。例えば、靴メーカーのトムス(TOMS)は、靴が1足売れるごとに、必要とする子供に1足の靴を寄付している。
有意義な体験の提供:生活のダウンシフトの鍵を握る価値観は、体験を共有し、お金を節約することだ。ブランドはピクニックなどの体験型消費に合った製品を販売したり、消費者の購買行動に沿ってブランド体験を提供したりすることで、このような価値観に応えることができる。例えば、オーストラリアのストリートウェア、スニーカーブランドのカルチャー・キングス(Culture Kings)は、店舗内で、音楽やスポーツのイベントを定期的に開催することで、消費者が友人同士で気軽に立ち寄り、そこで楽しい1日を過ごせるようにしている。
生活をダウンシフトする動きは、ブランドにとっては一見脅威のように見えるかもしれない。しかし実は、ブランドが一貫した価値体系を構築し消費者との深い関係を築くための、貴重な機会なのだと言えるだろう。
サナヤ・シンハ氏はクォンタム・コンシューマー・ソリューションズ(Quantum Consumer Solutions)のリーダー。