今年3月のアカデミー賞でマレーシア人女優ミシェル・ヨーが主演女優賞を獲得すると、アジアのクリエイティビティーに対する関心は世界で一気に高まった。
対象となった映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、ほとんどの出演者がアジア人俳優。ヨーの主演女優賞にとどまらず、作品賞、監督賞、脚本賞などアカデミー史上最多の10部門を獲得した。
この快挙を我がことのように喜んだのが、デジタルマーケティングエージェンシー「MRM」(インターパブリック・グループ傘下)のロナルド・ンCCO(チーフコミュニケーティングオフィサー)だ。ヨーと同じマレーシア人で、現在はニューヨークに拠点を置く。
「(ヨーの受賞は)遅過ぎたくらいです。彼女のキャリアを見れば、20年前に受賞しているべき。もっとも今回の作品は彼女の最高傑作ですが」
「アジア映画に詳しい人ならば、20年前のステファン・チョウ(周星馳、香港の映画監督)の作品が今の映画にどれだけ影響を及ぼしたかをよく知っている。当時の俳優たちは10年前にオスカーを受賞すべきでした。やっとその時が来て、本当に嬉しい」
そして、アジアの広告界も世界から同じような扱いを受けてきたと話す。「20年前の日本やシンガポール、タイの広告は多くが世界レベルだった。でも正当な評価をほとんど受けませんでした」
その一例として挙げるのが、マレーシア石油大手ペトロナスの2007年のCF(動画・下)だ。「この作品は時代を先取りし過ぎていた」。ディレクターを務めたのはレオ・バーネットの元ECD(エグゼクティブクリエイティブディレクター)、ヤスミン・アフマド氏。人種的偏見に全くとらわれない子どもたちをテーマにし、2008年のカンヌライオンズ・フィルム部門で金賞を獲得した。
「もしこの作品が今の時代に発表されていたら、もっと多くの賞を獲得していたでしょう」
「今の時代は多様なクリエイティビティーを受け入れる土壌がある。だから20年前のこうした作品が再評価されるのです」
これは欧米社会がやっとミシェル・ヨーの功績を認めたことと相通じる、と同氏。「アジア人を受け入れる意識改革が起きた。広告業界も同じで、エージェンシーの経営陣が様々な考え方やバックグラウンドの人々を受け入れるようになったのです」
20年前もクリエイティブ職にあった同氏は、当時の大手エージェンシーにアジア人のグローバル責任者が誰もいなかったことをよく覚えている。
「今では多くのアジア人がこの責務を果たしている。アジアが文化的に認められ、この業界で大きく飛躍したのは素晴らしいこと。20年前だったら、今私がやっているようなことは出来なかったでしょう。チャンスさえ与えられなかったでしょうから」
「アジアの小さな国から出てきた私が、こうした機会をもらえたことは大変な名誉。でも、活路を切り開いてくれた先達がいなければ今の私はなかった。クリエイティビティーの世界は本当に素晴らしい。マレーシア時代も、国や文化の異なる人々が様々なアイデアで私をサポートしてくれました。それがアジアのスタンダードとなり、やがて世界で認められるようになった。どこの国の作品かは誰も気にせず、クオリティーだけで判断してくれた。それがこの業界での成功につながりました」
だがン氏は決して、大きな国でチャンスをつかむために良い作品づくりを心掛けたわけではないという。「当時勤めていたエージェンシーは、ひとえに素晴らしい作品をクライアントに提供したいという姿勢だった。それが結果として世界的成功につながっただけ」
「クリエイティブに携わる人々は広い考え方を持っています。ですから誰にとってもチャンスは開かれている。良い仕事をすれば、必ず多くの可能性を生み出す。結果を出すのはひとえに優れた作品です。私の場合がまさしくそうでした」
「作品が成功するにつれてクライアントは増え、米国やシンガポールといった新しい市場で挑戦できるようになった。良い仕事をすれば必ず道が開けるのです」
人材を呼び込む
アジアのクリエイティビティーが注目されることで、「優れた人材がもっと業界に集まるようになってほしい」とン氏。「今日のクリエイティブの可能性は限りないですから」
人材確保は今の広告・マーケティング業界とって重要課題だ。若者たちの間で広告業界の人気が低い理由はこれまでもいろいろと取り沙汰されてきた。職場の多様性や給与水準の向上は、他の業界同様、避けて通れない問題だ。
「広告業界は人材確保にもっと努力しなければならない。業界特有の課題ではありませんが、私が広告の世界に入った頃は、もし仕事を失えば他に行き場がなかった」
「後戻りできないから、仕事に一生懸命励む。これはこれで良いことですが、どの業界も優れた人材を惹きつける努力をしなければいけない。私は今も、広告・マーケティング業界がキャリアをスタートする上で最適の環境だと思っています。この業界である程度キャリアを積めば、その後はどんな会社へも転職できる。弊社のようなマーケティングエージェンシーでも良し、デザイン会社でも良し。あるいはテック企業でも、クライアント側の企業でマーケターとして働くこともできる」
広告業界こそ人材を育成する場、と唱えるン氏。だが業界は老朽化し、20年前に比べて魅力は少ないのではないか。こうした見方に同氏は強く反論する。
「仕事を楽しみながら、自分をスキルアップできる。個人的に成功できる可能性も高い。そして10年もキャリアを積めば、どの業界でも通用するようになる。だからこそ我々は、人材を呼び込む策をもっと工夫せねばならないのです」
さらにクリエイティビティーとは「チームスポーツ」であり、サッカーのように「異なるスキルが求められる」とも。
「チーム全員がデヴィッド・ベッカムでは駄目。エージェンシーにはゴールキーパーもディフェンダーも必要です。自分の総合的スキルを上げるには、様々なエキスパートとの仕事を心掛けることが肝要。それも積極的に取り組んでいく。結果的にいろいろな人と仕事をした、では駄目なのです」
「今や素晴らしい才能を持った人々が我々の回りに多くいます。戦略的パートナーやテクノロジスト、データサイエンティスト……彼らはみなチームの一員です」
「時にはアイデアが先に生まれ、後からデータを使って検証することもあるでしょう。あるいは、データからアイデアが生まれることもある。いずれにせよ、様々なエキスパートをチームの一員にすれば、豊かなアイデアを創出する環境が整えられる。この業界でクリエイティブとして長期的成功を収めたいのなら、データやテクノロジーなど、あらゆるスキルセットを持っていなければならない。クライアントから一目置かれるパートナーになることが大切です」
生成AIの活用
Chat GPT(チャットGPT)やMidjourney(ミッドジャーニー)といった生成AIは、今も世界中で様々な論議を呼んでいる。クリエイティブたちの間でも、仕事を奪われてしまうのではないかといった懸念が少なくない。
広告業界の反応も様々だ。オムニコム・グループのジョン・レンCEOは、「生成AIを出来るだけ早く導入する」と表明。中国のマーケティングエージェンシー「ブルーフォーカス」はその先を行き、すでに人間のコピーライターとクリエイティブをAIに置き換えてしまった。
だが著作権の問題から、AIの活用をためらうエージェンシーもある。コンテンツプロバイダー「ゲッティーイメージ」は英スタビリティーAI(画像生成AI『ステイブル・ディフュージョン』を開発)を著作権侵害に当たると提訴した。サムスンのエンジニアなどは、企業の機密データをチャットGPTで共有しているのだ。
メディアエージェンシー「ヴェイナーメディア」のゲイリー・ヴィエナチェックCEOは「著作権と商標を侵害する恐れがあるので、生成AIの利用は認めていない」とCampaignに語った。同じくマーケティングエージェンシーVMLY&Rのレイモンド・チンCCOは、「現在AI利用に関する社内ルールを作成中で、今後半年間は利用しない」と語った。
MRMはAIの利用を禁じていない。「AIはアイデアなどが行き詰まった時に良きパートナーとなる。だが、最終的な答えを期待すべきではありません」とン氏。「キャリアを通じて様々なスキルセットを用いてきたクリエイターならば、必ず重厚なアイデアを出せる」
「クリエイティブにとって生成ツールは大いに利用価値がある。クリエイティブが仕事の心配をしているとは思いません。時代が読め、先見性のあるクリエイティブはこのツールをどのようにパートナーとして活用できるか考えるはず。例えば我々はクリエイティブブリーフ、特に大掛かりなブリーフを作成する時に活用します。『ビート・ザ・ボット(ボットに負けるな)』と社内で呼ぶ手法ですが」
「まずチャットGPTにブリーフの詳細をインプットし、クライアントに最適なキャンペーン企画とその課題を尋ねる。いくつものアイデアが出てきたら良いものを6つ選び、クリエイティブチームにこう伝える。これらをベースにしてさらに良いアイデアを出してほしい、と」
この手法ならば「スタッフもAIを安易に使うようなことはせず、AIのアイデアにさらに磨きをかけられる。スタッフのレベルも一気に上がります」。確かに大概のクリエイティブは、AIが出したアイデアで思考を止めてしまう。
「AIのアイデアが全てではない。アイデアの質を上げるためにAIを利用するのです。チャットGPIは同等の仲間。パートナーとして活用することが可能性を大きく広げる」
「クリエイティブにとっては(ボクシングの)スパーリングのようなものでしょう。相手(AI)が何かを言ったら、こっちも返す。そしてより良いものをつくり上げる。この手法は仕事を活性化します」
著作権に対する懸念はどうだろう。「知的財産権をどう守っていくのか、確固たる答えはまだない。我々はみな、生成ツールを使いながら学んでいる状況です」
ただしAI活用に際しては、「ブランドやエージェンシーが責任を持たねばならない」とも。注意すべきは、過去の作品と似たものをつくらないことだ。生成AIが登場する以前から「盗作」はあり、これまでン氏はその点を十分配慮してきたという。
かつてン氏の会社で、若いスタッフのチームがカンヌの受賞作とそっくりのアイデアを出したことがあった。もちろん彼らはその作品を知らなかった。
「たとえ故意でなくても、こうしたことはあってはならない。自分の作品には責任を持たねばなりません。過去に似たような作品がなかったか、よく調べることは不可欠。だから新しいテクノロジーも責任を持って取り入れねばなりません」
「たとえ他者のアイデアを進化させたものであっても、それは盗用になる。こうした行為を許さないシステムをつくる必要があります。どうすれば故意の盗作を防げるか、また万一起きてしまった際はどう対処すべきか、いま弊社では対策を練っています。クライアントに対し、きちんと責任を果たさねばならないので」
クリエイティビティーの未来
今はeコマースもクリエイティブな時代だ。TikTok(ティックトック)ショップのようなチャネルを活用し、売上増とエンゲージメント向上を図るブランドは増えつつあり、クリエイティビティーが果たす役割も進化した。
「eコマースが注目されているのはとてもエキサイティング。エージェンシーも消費者を刺激し、クライアントの製品を買ってもらうよう仕掛けねばならない。重要なのはeコマースもテクノロジー同様、クリエイティブのパートナーでなければならないということ」
MRMでは早い段階からeコマースに対応するチームを編成した。そしてティックトックやインスタグラムといったプラットフォームが、ビジネスチャンス拡大のためにどのような戦略を取っているか理解に努める。
「ブランドの戦略が効果的でなければ、クリエイティブではないということ。我々はアートを売っているわけではない。コマーシャルな『アートビジネス』を行っているのです。消費者の生活を刺激し、向上させていくことでクライアントに貢献しなければならない」
「ティックトックは5年前に世界を変革した。今も中国はeコマースで他国より進んでいます。中国は倫理性を守りつつ、eコマースを展開する術を知っている。世界の国々ももっと迅速に、そしてクリエイティブにeコマースを受け入れてほしいと思います」
(文:ショーン・リム 翻訳・編集:水野龍哉)