男女間の賃金格差は、大概の人々が強く認識している課題だろう。米コンサルティング会社コーン・フェリーが2020年に行った調査「グローバル・ジェンダー・ペイインデックス」によると、女性の賃金は男性よりも平均で15%低い。ポーランドでは、男性の収入1ドルに対して女性の収入は91セント。イスラエルと米国では81セントで、韓国は65セント。さらに中国やインド、ベトナム、カンボジアといった新興国はより低い数字になる。これを生涯賃金や退職後の収入に置き換えると、その差は歴然だ。だがこうした現実は氷山の一角に過ぎない。
賃金格差にとどまらず、職場における女性の昇進や待遇の問題はあらゆる業界が抱えており、改善の糸口はいまだに見えない。
そして様々な調査が示すように、広告業界も決してその例外ではないのだ。
消費支出の80%を担うのが女性であるにもかかわらず、広告業界では女性が著しく過小評価されている。広告業界における総労働者の46%は女性だが、いざ管理職となるとその数は激減。DEI(多様性、公平性、包摂性)コンサルティング会社クリエイティブ・イコールズが2020年に英国広告業界を対象に行った調査では、上級職(部長及びクリエイティブディレクター以上の役職)に就いている有色人種の女性は12%に過ぎず、アフリカ系の女性に限ればわずか6%だった。
問題はそれだけではない。米人気ドラマシリーズ『マッドメン』(1960年代のニューヨークの広告業界がテーマ)で描かれたごとく、依然としてマッチョ志向の男性が支配的な広告業界では、女性の半数以上がセクシャルハラスメントを経験し、己の無力さを感じたという(2016年の調査から)。
職場での無力感とはどういうことなのか。
「日常的なジェンダーバイアス(男女の役割に関する固定的な観念、それに基づく差別・偏見)に女性が慣れてしまうこと。蔓延し過ぎているため、その現実を理解するまでに時間を要します」。こう話すのはPR業界団体PRCA APACの平等性と多様性、包摂性委員会議長を務めるチャル・スリヴァスタヴァ氏だ。
ジェンダー平等を目指す英団体WACLプレジデントで、クワイエットストーム社CEOのラニア・ロビンソン氏は、「賃金格差を解消することで多くのジェンダーバイアスも解決できる」と語る。「私が第一子を産んだ後に勤めた職場では、暗黙のジェンダーバイアスが支配的でした。女性は産後に職場復帰すると、ピッチや重要な打合せから外されてしまう。余りにも過小評価されるので、最後には社を辞めざるを得ない。私も結局、フリーランスになった。当時は他にオプションがなかったのです」
同一賃金は「ブラックボックス」
賃金格差の解消を目指す米市民団体フェアペイ・ワークプレイスが、男女同一賃金を実現した世界初のクリエイティブエージェンシーとして認証したのがスウェーデンのフォースマン&ボデンフォース(F&B)だ。同社は世界各地にオフィスを構え、700人の従業員を擁する。
「賃金の公正化が個人レベルとエージェンシー全体に与えた効果は絶大でした」と話すのはF&Bシンガポール社長のポー・ケイ・リー氏。「同一労働同一賃金に責任を持つことが我々のスタンス。後戻りすることは決してありません。その明快さは大きな利を生みます。今後も進歩的かつクリエイティブで、素晴らしい職場環境のエージェンシーとして躍進していきたい」
では、賃金の公正化とは正確に何を意味するのか。
「ジェンダーや人種、民族にかかわらず、同一労働に同一の賃金を支払うこと」と話すのはM&Cサーチ・インドネシアの創業者、アニシュ・ダリアニ氏。
F&Bのグローバルチーフタレントオフィサー、ミシェル・プロタ氏は同一賃金が「多くの重要課題を解決するカギ」という。「『静かな退職』や『大退職時代』など、人材を確保できない企業の欠陥は賃金格差が主な要因です」
「人件費はどのエージェンシーにとっても最もコストがかかる要素。企業は経歴やジェンダー、人種による偏りがないよう、公正に従業員を評価しなければならない。賃金が常に公正に支払われ、良質な企業文化の醸成に役立っているかをチェックしていくべきです」
企業文化はF&Bにとって重要なブランドパーパスだ。2019年、同社の6つのオフィス(ストックホルム、ニューヨーク、トロント、モントリオール、上海、シンガポール)は女性の雇用・昇進に積極的であることを評価され、米市民団体ザ・3%ムーブメントから認証を受けた。同社従業員の61%は女性で、管理職の女性は57%に達する。
企業文化が生産性とパフォーマンスに大きな影響を与えるのは、想像に難くない。
英大手会計事務所グラントソントンの2019年の調査によると、多くの企業が「文化醸成」を誤解し、見当違いの支出をしていることがわかった。従業員の真の意味での健康や、ROI向上に決して役立っていないというのだ。
「文化とは、ハッピーアワーやタコ・チューズデイ(毎週火曜日にタコスが安く食べられる米国のPRイベント)を利用して同僚とお酒を飲んだり、イベントを催すことではないのです。こうした活動はチームの絆を深めるためにはいいでしょう。しかし真の文化というのは、従業員が安心して自分自身でいられる環境をつくり出すこと。職場に誇りを持て、同僚を家族のように思える環境づくりが大切なのです」(ダリアニ氏)
では、賃金の公正化はそれを達成するために欠かせない要素なのか。
2012年に創設されたザ・3%ムーブメントの名称は、当時の広告業界の女性クリエイティブディレクターの割合が3%だったことに由来する。創設者のカット・ゴードン氏は「文化は新たなクリエイティビティー」と喝破し、電子メールの自署欄にもこの言葉を引用する。「もちろん、企業文化のことを示唆しています」
「私が訴えているのは帰属意識。我々人間は社会性を持つ哺乳動物で、人とのつながりを求めている。安心感も大切で、人から注目もされたい。そうした欲求を満たす大きな解決策が、公正な賃金です。それが実現すれば、我々はより豊かな気持ちになれ、生産性も上がる。組織への帰属意識も高まります」
賃金公正化は従業員確保に不可欠か
この8月、マイクロソフトは重要な人材確保策を発表した。雇用の凍結と、株式報酬をベースにした従業員の給与引き上げだ。米国のインフレ悪化が続き、労働市場は「超売り手」の中、同社は優秀な人材確保こそ最大の利益と判断した。今年前半、アマゾンは技術者確保のため従業員の基本給を倍以上増やし、最大350万ドルとしたが、マイクロソフトはこの戦略にならったとみえる。
「今の極めて不安定な時期に、企業と従業員の力関係がこのように推移するのは興味深い」と話すのは、公正な職場環境の構築をサポートするスタートアップ企業シンディオ(Syndio)のCEO、マリア・コラカーシオ氏だ。
「企業は労働者が新たな『戦略』を手に入れたことに気付き始めた。世界の経済市場は行き詰まり、その評価額は40〜50%も落ち込んでいます。人事担当者は、人材確保のために従業員との妥協点を必死に探っている。優秀な人材を逃してしまえば、また新たな人材を一から育てなければならない。そのコストは莫大なものです」
人材確保に重要なのは、「信頼性と透明性を醸成して従業員と接し、十分な給与を支払うこと。公正な評価を受け、ジェンダーのような本質的要素で差別を受けていないと感じれば、従業員は会社に対して大きな信用を抱きます」
APAC統計の不備
残念ながらアジアの広告業界には賃金の公正さを示す指標や、透明性を促進する具体的な法規はまだない。企業が賃金体系を明確に示さねば、ジェンダーなどの賃金格差を改善するのは難しい。
「企業幹部が密室で何を話し合っているのか、我々にはわかりません。とても残念なことです。業界全体の賃金の基準値がわからなければ、格差をどう是正すべきか判断できない。今は全てが闇の中です」(スリヴァスタヴァ氏)
現在、最も有効な取り組みを行っているのは英国だ。政府はイングランドとスコットランド、ウェールズにある大手広告エージェンシー48社のうち13社の賃金実態を公開。それによると、2020年から2021年における男女賃金の中央値の格差は25%。国家統計局によれば、2020年の英国全土における男女の賃金格差は15.5%だった。
「賃金の透明化はミレニアル世代やZ世代に後押しされた一時的トレンドではありません。公正化は企業文化と従業員の確保・離職防止に直結する。今日の従業員にとっては決定的問題です」(コラカーシオ氏)
F&BのグローバルCFO、ベッツィー・フリードマン氏は、「賃金の透明化は説明責任を果たすことにつながる」という。「ひとたび格差是正に取り組めば、劇的な変革になることはエージェンシーがわかっている」
「賃金の公正化が実現すれば、変革の規模は企業文化の向上だけにとどまりません。広告業界は長年、人件費の問題で四苦八苦してきた。業界全体に大きな影響を及ぼすでしょう」
プロタ氏はこう補足する。「我々の業界のビジネスモデルはサービスを数値化すること。労働時間を商品化し、サービスの質ではなくて費やす時間に価値を置く。これは必ずしもF&Bのやり方ではありませんが、賃金の公正化はエージェンシーとクライアントとの関係改善にも役立つでしょう」
フリードマン氏はこう述べる。「クライアントがエージェンシーと向き合う時、まず話題に出すのは取引のこと。クリエイティブソリューションではありません。『サービスの価格表はどうなっているのか』『経費はいくらかかるのか』……。サービスの質ではなく、時間や価格についてまず話し合うのは、透明性と信頼性が欠けているから。賃金の公正化は、こうした問題を解決できると確信しています。価格や経費など内向きな議論をする代わりに、成果物や透明性といった全体的なビジネスの話をクライアントとできるでしょう」
F&B以外のエージェンシー
これまでの意見をまとめれば、賃金の公正化は明白かつ簡潔な人材確保策と言える。ではなぜ、F&B以外のエージェンシーは同じ取り組みを早急に進めないのか。
「おそらくそれは、パンドラの箱を開けることになってしまうからです」とスリヴァスタヴァ氏。「公正性の第一歩は透明性。今は賃金に関して総合的かつオープンな議論は行われていません。人は高い収入を求めて転職する。今、会社が賃金を公開して、業界の標準よりも給与を安く設定していることを従業員が知ってしまえば、優れた人材は離職してしまう。ですから、企業が求人の際に給与を示すのは素晴らしいことです。誰もが自分の価値を理解できるし、質の高いプロジェクトで評価されるのなら、10%や15%ほどの給与アップでも他の会社に移るでしょう」
フェアペイ・ワークプレイスの認証を受けたF&Bにとって、次なる課題は求人の際の給与幅を公開することだ。
米コンサルティング会社ガートナーの2021年の調査では、現在の男女賃金格差を解消するにはまだ少なくとも30年かかるという結果が出た。「必要なのは『進歩』ではなく、『革命』」と同社は報告書に記す。
ダリアニ氏は、40〜50カ国で事業を展開する大手ネットワークにとって世界的な認証を受けることは、「事業的にとてつもなく大きな負担」と話す。
「過去数年間にはたくさんの変化があった。エージェンシーはDEIの改善に真剣に取り組みました。しかし大手ネットワークにとっては、こうした認証を受けるには大規模な再構築が必要です。改善しようという意欲や透明性が欠けているのではなく、日常業務に支障をきたし、こうした追加業務にとても対応できないのです」
ダリアニ氏自身も、人種を理由に不公平な賃金を受け取っていた時期があった。「ジェンダー平等と真のインクルージョン実現は、1種類の認証や捺印ではなく、様々な測定方法によって成されると考えます」
昨年、同氏のM&Cサーチ・インドネシアは厳格かつ公正な賃金規定を定めた。これによって男女比の割合は改善。管理職に占める女性の割合は59%となった。現在は男性51%、女性49%になっている。
「賃金公正化」以外に
米国における女性上級管理職の割合は、カット・ゴードン氏がザ・3%ムーブメントを創設した時の3%から12%に増えた。残念ながらこうしたデータはAPACにはないが、その少なさは言わずもがなだろう。
では、賃金の公正化以外で、職場における真のインクルージョンを実現する要素とは何か。
ロビンソン氏はこう述べる。「同一賃金は不可欠ですが、上級管理職の男女比を等しくすることも重要。そして、そこには多様性も必要です。恵まれた環境で育った異性愛者の白人女性だけを増やしてもだめなのです」
スリヴァスタヴァ氏が補足する。「新たに人材を募集する際に、『これまでどれだけ給与をもらっていたか』という質問はもうしないことです。そして、育児休暇や介護休暇を取る人にペナルティーを与えない。4〜5年のブランクが何でしょう。その人が現在持っているスキルセットに合った給与を支払えばいい。過去の給与水準は参考にしないことです」
(文:ニキータ・ミシュラ 翻訳・編集:水野龍哉)