テクノロジー人材、特にデータやeコマース、アナリティクスのスペシャリストへの需要が急増している。それに伴い、エージェンシーからコンサルティング会社やプラットフォーム、スタートアップなどへの人の「集団移動」が起きている。エージェンシー幹部や管理職専門の人材会社によると、高い給与やストックオプション、最新テクノロジーに接する機会が転職者を魅了しているという。
一方、エージェンシーは離職率を食い止めようと躍起だが、有効な対策を打ち出せていないのが現状だ。
こうした傾向が顕著になったのは、半年近く前から。今年3月にCampaign Asia-Pacificが発表した「エージェンシー・レポートカード」では、いくつかのエージェンシーが離職率の増加(特にテック人材)に悩まされている実態が明らかになった。例えば、DDBマレーシアでは離職率が倍増。同チャイナでは実に51%に達した。同社は中国で人員増加を図るが、幹部は「中国、特に上海の人件費は世界で最も高い」とこぼす。
引き金はデジタル変革
「今は非常に多くの企業がデジタル変革に取り組んでいる。そのためにマーケティングサービス業界の人材がどんどん引き抜かれているのです」。こう話すのはウェーブメーカーAPAC(アジア太平洋地域)のゴードン・ドムリジャCEOだ。「どの企業もテック分野のソリューションを性急に求めている。テックで失敗すると、他社との競争に負けるという強迫観念がありますから
ある消息筋は、限られた数のテック人材の争奪戦が彼らの給与を不当に釣り上げているという。ドムリジャ氏のようなエージェンシー幹部にとっては大きな課題だ。「企業は当然ながら、能力の高い人材を探してます。しかしそのどさくさに紛れて、経験の乏しい人材にまで高い給与が支払われているのです」(同消息筋)
技術力だけではなく、「マーケターの戦術を理解し、それに応えられる能力を持つテック人材の発掘がエージェンシーの課題」というのはピュブリシス・グループの北アジア担当ストラテジックソリューション・マネージングディレクター、リチャード・フランプトン氏だ。こうした人材を呼び込むために、エージェンシーは彼らが適応できる環境と文化を社内に醸成しなければならないという課題も抱える。
さらに、エージェンシーはこうした人材を社内でも育成しなければならない。だがお金と時間を費やして一流の人材を育てても、他社から好条件を提示され、結局は離職するケースが多い。「この業界は一般社員よりも専門知識を持つ人材を好むのです」と話すのは、ある広告エージェンシーから中国のテック企業に移ったシニアマーケターだ。「私が転職しようと思った時には、少なくとも3つの企業からオファーを受けました」
大手広告エージェンシーで積み上げたキャリアを捨て、スリルとより高い収入を求めてテック業界に移るのは彼だけではない。CampaignはTCS(タタ・コンサルタンシー・サービシズ)、アクセンチュア ソング、メタ、スナップ、ツイッターといった大手コンサルティング会社ならびにプラットフォームの人事責任者6人に話を聞いたが、どの企業も元エージェンシー社員を採用していた。
さらにスタートアップも、最近まで広告業界の人材を積極的に雇用していた。調査会社フォレスターとWFA(世界広告主連盟)、Campaignによる最新の合同調査では、採用者に必要なスキルセットとして40%の回答者が「マーテック/アドテク」を挙げた。これは3番目に多く、トップに挙がったのはデジタルビジネス/eコマース(57%)、2番目はアナリシス/レポーティング(50%)だった。
「今の人材争奪戦はもはやメディアエージェンシー対クリエイティブエージェンシー、あるいはマレーシア国内、APAC内といった域を大きく超えています」と話すのはアクセンチュア傘下の広告エージェンシー、エントロピアのプラシャント・クマールCEO。「今ではグローバル規模で優れたテック人材の争奪戦が繰り広げられている」
業界の企業幹部たちも、テック人材への需要はこの数年急増したと話す。コロナ禍によってエージェンシーの未来に暗雲が立ち込めたのとは対照的に、テック企業のビジネスはにわかに活気を帯びたのだ。
「今日のブランドや広告主が求めているのは、消費者にリーチして関係性を構築する能力です。それこそがビジネス成長への道だと多くの業界幹部が認識している」。こう話すのは検索会社グレースブルーのAPAC担当CEO、ヘレン・ダフィー氏だ。「ゆえに転職者にはデジタルビジネスやeコマース、マーテック、アドテク、データサイエンス、最新テクノロジーなどのスキルが求められています」
変化する転職
転職が盛んになり始めた当初、主流は組織レベルの移動だった。今は若手社員に白羽の矢が立ち、職種もプランナーからシニアマネージャーまでと多彩だ。彼らは様々な規模のテック企業に転職し、広告部門で対エージェンシーのセールスを担当する。マーケティングやビジネス開発を担う人々もいる。
エージェンシーの幹部や人事担当者は、高い給与や様々な特権を与えても優れた人材を社内につなぎとめておくのは難しいと話す。彼らがテック業界やスタートアップに惹かれるのは、数年もすれば変わってしまうかもしれない業界のダイナミクスを今、最大限に享受したいからなのかもしれない。
ダフィー氏は、コロナ禍によってテック人材のキャリアの軌跡が変化したと指摘する。「『大退職時代』は、実は『大・再調整時代(Great Recalibration)』だったのです。その現実をいま我々は目の当たりにしている。2年間にわたる混乱と不確実性の時代を経て、就業者は心身共に消耗してしまいました。本物の価値や真正性を問い直し、自分の雇用主が人間性と収益のどちらを重んじているか、見つめ直しているのです」
ワークライフバランスの是正
中国のテック企業に移った前出のシニアマーケターは、労働時間が以前より25〜30%減ったという。「エージェンシーで働いていた頃は社内の雑音やクライアントへの対応が常にあり、自分の仕事に集中するのが難しかった。今はそれが一切なくなり、時間の使い方が極めて効率的になりました。エージェンシー時代のジェットコースターのような日々もなくなり、若干退屈ではありますが」
フォレスターの主席アナリスト、ワン・シャオフェン氏はこのように語る。「我々の調査で、2年以内に転職したいと考えている人は中間管理職層に最も多いとわかった。彼らの半数は転職を志しています。ディレクターなどの経営層では16%に過ぎません」
転職者が急増する要因は、テック企業の資金力だけではない。「エージェンシーがケチなのももう1つの要因」とウェーブメーカーのドムリジャ氏はいう。「テック企業やプラットフォームでは1日中ビュッフェで食事が楽しめ、会員制ジムや託児所、スパといった設備まである。そんな職場環境に我々はどうやって対抗すればいいのでしょう? エージェンシーで働いた経験しかなければ、こうした企業は職場というより『地中海クラブ』ですよ」
では、エージェンシーはどうすればいいのか。エントロピアのクマール氏は、「サンドボックス環境(隔離された領域でプログラムを実行し、問題が起きても他のプログラムに影響を及ぼさないようにする仕組み)を構築し、優れた人材を保護することが肝要」という。「彼らに最新テクノロジーやソリューションへのアクセスを与え、通常の雑事から解放してイノベーションに集中させるのです」
主要テック企業やコンサルティング会社のような高い給与を払えないのなら、エージェンシーは「社内の部署間の関係を深化させ、社員のモチベーションを高め、共に成果を喜び合える環境をつくるべき」というのはグレースブルーのダフィー氏だ。「こうした一体感は大手のテック企業やコンサルティング会社では経験できません」
人材流出は収束するのか
一方、ピュブリシス・チャイナは離職率の急増を抑えたとフランプトン氏はいう。同社はテックの専門家たちをビジネス部門に配属した。「給与を上げるだけの策は取りませんでした。彼らの仕事の領域と可能性を広げ、新しいブランドとの仕事の機会を創出したのです」
だが複数の業界幹部は、こうしたやり方に疑問を呈する。コロナ禍によるテック人材への需要の急増は、やがて収束すると考えているからだ。スタートアップからネットフリックス、アリババなど巨大プラットフォームに至るまで、ビジネス拡大による「成長痛」は避けられないという見方もある。
この数年間テック企業に優秀な人材を奪われてきたWPPやピュブリシスといった大手エージェンシーが、コロナの収束で再び輝きを取り戻す −− そんな可能性も否定できないだろう。
(文:ラウル・サチタナンド 翻訳・編集:水野龍哉)