米調査会社ガートナーが提唱した「ハイプサイクル(特定技術の成熟度や採用度、社会への適用度を示す図)」によれば、新しい技術はまず“流行期(=Peak of inflated expectations、過剰期待の頂)”を迎え、次に“幻滅期(=Trough of disillusiion、幻滅のくぼ地)”へと移行する。やがて“回復期(=Slope of enlightment、啓蒙の坂)”となり、最後に“安定期(=Plateau of productivity、生産性の台地)”に入るという。
IoT技術に関して言えば、流行期はとうの昔に過ぎ、今は回復期に当たる。だがマーケティングの分野では、単発的な例外を除き、これまでこの技術が目覚ましい成果を上げることはなかった。
だが、今や日常にあふれるコネクテッドデバイスにマーケティングの未来がないわけではない。これらに蓄積されるデータは製品や消費者に関する重要なインサイトの源となり、マーケターにはエンドツーエンドのカスタマーエクスペリエンスを実現させてくれるのだ。
しかし「今のところ、マーケティングにおけるIoTのデータ活用はまだ初期段階」というのはデジタルエージェンシー、エッセンス社APAC(アジア太平洋地域)アナリティクス部門責任者のアーティ・バラドワジ氏。「ただ、いくつかの市場ではすでに活用しているブランドがあるようです。消費者がどのように製品を利用し、マーケティングコミュニケーションのどの部分に反応するかといったインサイトを獲得する目的で」
その代表例が日本だ。この6月、電通はインターネットに接続された家電のデータを活用し、クライアントにメディアプランニングを提供するサービスの開始を発表した。この手の試みは日本初で、IoTデータの活用を進める他国企業にとっても衝撃的な知らせだったようだ。
「ドムス・オプティマ(ラテン語で『快適な家』の意)」と名付けられたこのサービスは、エアコンや空気清浄機、オーブンレンジ、自動調理鍋、洗濯機といった40万台に及ぶシャープのIoT家電から収集するデータが基礎となる。ユーザーは、シャープの家電と連動するスマートフォンアプリ「COCORO+(ココロプラス)」にログインする際に、データ利用の是非を通知する。これらのデータには、タイムスタンプ(時刻情報)や利用した機能などが含まれる。
電通はこのデータを消費者インサイトの発信源として活用し、「デジタル広告でターゲットとするユーザーセグメントを作る」(電通データ・テクノロジーセンターの前川駿氏)。さらにココロプラスのユーザーを対象に、習慣性やキャンペーン後の広告効果の検証といった綿密な調査も行う。こうしたサービスは、開発段階のベータ版として提供される。
例えば、30万台の家電を対象にしたあるプロジェクトでは、大手食品メーカーがオーブンレンジのユーザーのスマートフォンに向け、作りたての味をうたった調理済み食品の広告を発信した。クリックスルー率(CTR)は、単なるデモグラフィックで選んだグループよりも35%多かったという。
また、以下のような傾向も判明した。CTRの高いユーザーは家族向けの大きな電子レンジを所有し、パンを温める機能を頻繁に使う。一方、CTRの低いユーザーは冷凍食品の解凍機能を多用する。こうして得たデータは、「クライアントが今後のターゲティング広告やメッセージング戦略を練る上で、重要なインサイトになる」(電通)
ドムス・オプティマの技術を支えるのは、電通が開発したプラットフォーム「Stadia(スタジア)」だ。これはスマートテレビから収集した視聴データを分析・応用するプラットフォーム。5年ほど前から運用が始まり、「これまで500以上のキャンペーンで重要な役割を果たした」(前川氏)。現在ではグーグルディスプレイネットワークやダブルクリック、クリテオ(Criteo)、ヤフーなどの広告配信ネットワークに活用される。言いかえれば、IoTのデータはスタジアに新たなデータを提供することになるのだ。
バラドワジ氏は、「IoT対応のデバイスは、有用なインサイトを提供するほどまだ普及していないのではないか」と疑念をはさむ。「将来的なプランニングの方向性は示唆できても、IoT技術の導入がまだ限定的であることを考えれば、必ずしも多数のユーザーの行動を反映しているとは言えません」
前川氏も、IoTデバイスを家庭で利用する消費者がまだ少ないことは否定しない。それでも、「過去5年間で確実に増加しています。さらに普及すれば、広告主のソリューションに強い影響を及ぼすようになるでしょう」
そもそもIoTとは何か
IoTに関しては、実に多くのデバイスやアプリが話題に上る。だが問題は、それらがどれだけ役に立っているかということだろう。例えば、ロケーション広告のためのセンサーが付いたテニスシューズや、スマートセンサーが埋め込まれた建物のコンクリート……。こうしたアイテムが、果たして人々の暮しに有用なのだろうか。
元来、IoTの定義には2つの大きな特徴があった。まず、IoTデバイスは蓄積したデータの交換を人間の介在なしで行うこと。そして、そもそもIoT対応の機器はコンピューティングデバイスではないということ。こうした見方に基づけば、IoTとは他の目的を持つモノに埋め込まれた、コミュニケーション能力のあるセンサーを意味する。そのセンサーによって、テニスラケットや皿洗い機、輸送用コンテナ、医療用の移植片、建築資材といったモノが有用なデータを提供するのだ。
このコンセプトに従えば、アップルウォッチや「フィットビット」は正確にはIoTデバイスとは言えない。それぞれが独自のユーザーインターフェイスを持つからだ。アップルの「エアタグ」のように紛失物の発見に役立つデバイスは、モノにIoT機能を加えたものになる。車の鍵ならば、IoT対応の鍵ではなく、鍵にIoT機能を加えるのだ。サーモスタットやホームセキュリティーデバイスと接続しているスマートホームデバイス(スマート電球など)は、明らかにIoTになる。デバイスが収集したデータを活用し、命令を発することで初めて有用性を持つ。
マーケティング界では、これまでIoTは主に消費者の興味を引くため、単発の取り組みに利用されてきた。だが上記の電通の試みのように、IoT対応デバイスを使って得られるデータは製造業者(上記の場合はシャープ)のみでなく、クライアント(同じく、大手食品メーカー)にとっても貴重なインサイトの源となり得る。
IoT技術はサプライチェーンや小売業界でも、マーケターにとって利用価値が認められつつある。IoTを使って消費者インサイトを理解し、より質の高いカスタマーエクスペリエンスを創出しようという取り組みはすでに始められている。以下、その例を挙げる。
スイスに拠点を置くコカ・コーラHBC(ヘレニック・ボトリング・カンパニー)はテック企業アトスと協働し、50万台のIoT対応冷却器を販売店に設置した。最終的には28カ国に160万台を置く予定だ。これを使ってコカ・コーラHBCは冷却器の開閉頻度といった販売時点管理情報(POS)にアクセスし、小売環境の改善点をあぶり出す。また消費者インサイトの理解だけでなく、販売員は在庫状況や技術的問題を容易に把握でき、サプライチェーンの効率化にもつながる。さらにこの冷却器は消費者のスマートフォンにもメッセージを送り、消費者の現在地から最も近い販売店を教えることもできる。
ホームデポも、IoTを在庫管理に活用する大手リテーラーの1つだ。巨大な店舗に設けられたIoTは、客(特に富裕層)が欲しいと思う商品を容易に見つけ出せるようサポート。売り場までの最短ルートも示してくれる。
(文:マシュー・ミラー 翻訳・編集:水野龍哉)