60年近くにわたり、日本の広告界でコツコツと地歩を築いてきたマッキャン・ワールドグループ。グループのビジネスの中核は、ヘルスケア市場を長年牽引してきたマッキャンヘルスだ。同社は昨年からフィリップ・モリス・インターナショナル(PMI)の加熱式タバコIQOS(アイコス)のキャンペーンを担当。大手タバコメーカーを新たなクライアントとしながらも、現在までその悪影響は出ていない。
10月1日付で、アントニー・カンディー氏がチャールズ・カデル氏からマッキャン・ワールドグループのチーフエグゼクティブの座を引き継いだ。現在の国内市場では、最も利益を上げられるメディア分野での電通と博報堂の二強体制は揺るぎがない。だがカンディー氏は、「マッキャンだけでなくMRMやモメンタム、UMといった(同グループの)他ブランドを変革すればそれぞれの分野でトップに立てる」と信じてやまない。実際、日本で20年間働いてきた同氏が掲げる目標は「電通と博報堂に対抗できる企業を生み出すこと」だ。
確かにそれは夢物語に聞こえるかもしれない。国内で事業を展開する海外エージェンシーのほとんどは両社に正面から挑むことは避け、小規模のビジネスもやむなしとして、限られた範囲での競争に甘んじている。
だが、ビーコンコミュニケーションズでストラテジーディレクターを務めた経験を持つカンディー氏は、グループ内のさまざまなブランドを束ね、互いにサポートし合うことでより強靭な競争力を生み出せると考える。
「正直、(傘下の)エージェンシー全てがそれぞれの専門分野で優位な立場にあるとは言えません。グループ内のサポートがあってこそそれは実現できるでしょう」。グループをより一体化させようと始めたカデル氏の取り組み。更にそれが進むかどうかは、カンディー氏のリーダーシップ次第だ。
インサイトと「熱度」
「世界的な目標を実現することが第一です。つまり、世界一のクリエイティブ主導のマーケティング会社になること。もちろん、こういう言葉が陳腐に聞こえるのは分かっています。しかし私が考えるに、それこそが日本市場で我々が成功する手立てなのです」。つまり肝心なのは、「クリエイティブに対するより強い情熱と文化を育てること」だという。
事実、こうした目標はどのエージェンシーグループにも当てはまるだろう。だが、メディア分野で電通と博報堂に匹敵する能力を持って競うならば、マッキャンが優越性を発揮できるかどうかは人材のクオリティー次第となる。もしそれが非現実的ならば、同氏のプランナーとしてのバックグラウンドが同社をより高いレベルに引き上げるために役立つに違いない。
「消費者の知見や行動を変えるようなインサイトを醸成し、高みを目指さねばなりません。『日本では戦略的思考が難しい』という不平をグループ内でよく聞きます。プランナーだけでなく、クリエイティブにもこうした課題に取り組んでほしいのです」
リーダーとして社員へのアプローチは、「単に引っ張っていくよりも、方向性を指し示す方が好ましい」。「特に日本ではそうした手法が肝要で、私自身も含めてグループ内のどのブランドにも当てはまることだと思います」
更に、各社員に一定の権限を与えるとともに「熱意を持たせることも重要」という。マッキャンのオフィスは改修されて快適になったが、確かに社内に「熱気」は感じない。もっとも、ほとんどのエージェンシーがそうであろう。同氏の言は、社員にもっと自由を与えることを意味するとも捉えられる。昨今、特にプレッシャーが増した広告業界でしばしば忘れられがちな真のクリエイティビティーとオリジナリティー。それらを伸ばすには社員の「自由度」は欠かせない。「仕事を完遂することは我々の責務。しかしもっと皆が自覚せねばならないのは、なぜこの業界で仕事をしているかということです。毎日が新しく、エキサイティングな経験ができるからでしょう?」。
「社員の熱度を高め、グループ内でそれを後押ししていくことは制作物のクオリティーを高めるだけでなく、我々が共に働きたいと考える若い人々へのアピールにもなります」
成長要因と東京五輪
PMIの獲得は同社の売上高成長率に大きく貢献した。「PMIをクライアントにしていなければ、ユニークなスキルセットを持つ人材への投資はできなかったでしょう」。また、ベーリンガーインゲルハイム(独・製薬会社)とベネッセの存在も別の意味での成功要因だったという。「グループ内ブランドの協働を促進する目標に大きく貢献しました」。
広告業界は来年の東京五輪を新事業の契機と見据え、この数年楽観的な空気が満ちている。だが同氏は「期待するほどの大きな動きは見られない」という。その大きな要因は、電通が大会に関する権利を握っているからにほかならない。この複雑な状況に割って入ってエネルギーを消耗するよりも、大会が日本に残す長期的影響に同氏はむしろ関心を示す。
「海外企業にとって面白いのは、大会後の動きだと思います。今の時点で電通と競合するよりも、そちらに照準を絞る方がもっとエキサイティングなビジネスチャンスを見つけられる。電通は既に大会の権利をそつなくおさえていますから。日本は大会後のこともいろいろと考えている。自分の国をどう伝え、未来をどう見据えるのか……多くのテーマがあるのです」
では、海外エージェンシーが喧伝してきた五輪関連のビジネスは全て希望的観測にすぎなかったのだろうか。「そうだと思います。五輪スポンサーではないブランドにとって、電通以外のエージェンシーと協働してその壁を打ち破るのは非常に難しい」。実際、公式スポンサーにとっても直接的なライバルの多さや権利の複雑さが壁となり、アクティベーションは難しい課題となっている。
カデル氏はこの3年間、オフィス文化の向上を優先事項としてきた。カンディー氏も引き続きワークライフバランスの向上を公約に掲げる。課題は、クライアントの要求の矢面に立つ中間管理職をいかに社内で維持していくかだろう。「ここで働く750人の社員に対し、我々は責務を負っています。彼らを単なる働き手としてではなく、良き同僚として扱わねばならない」(カンディー氏)。
日本で学んだ「謙虚さ」
カデル氏はマッキャンに約10年間在籍し、CEOとしては3年余を過ごした。退社後はフランスに移り、自身が所有するスリランカのホテルでもある程度時間を過ごしながら、これまで不足がちだった休暇を楽しむ予定だ。「私のバケットリスト(死ぬまでにしたい100のリスト)はあなたの腕よりも長いですよ(笑)」。
多くの海外エージェンシーのトップは、日本での日々を振り返る際にふた通りの反応を示す。「キャリアの中で最もやりがいがあった」、あるいは「幻滅した」というものだ。カデル氏は今も日本市場に対し、「CEOに着任したときと同じポジティブな気持ちを抱いている」という。更に、「マッキャンの財政体質は極めて強化されました」とも(具体的な数字の言及は避けた)。
グループ内ブランドの事業は今は均等に分割され、「素晴しい調和を生み出したことに誇りを感じています」。「4年前の我が社の弱点は、多くのクライアントが一つのエージェンシーとしか協働していなかったこと。今では分業化が進み、それがグループ内での仕事のやり方になった。極めて異なる文化を一つにするコラボレーションの精神は、クライアントにとっても有益です。そして、我々のビジネスの成長要因にもなる」。
日本での学びについては、同氏は忍耐とともに「謙譲の精神が大きい」という。「インドで仕事をした際、外国人としてインド人と働くのは非常に難しいということを学びました。何とか方法は見つかるものですが……」。「日本が教えてくれたのは謙遜の気持ちです。これは社会の複雑さだけでなく、多様性や深度にも関わること。外国人は、日本での物事の成り行きは決して完全に理解できないのではないでしょうか。分かったと思った瞬間に、墓穴を掘ることになる。ですから常に自問を繰り返し、憶測で行動するのではなく、日本人のパートナーに自分が正しいかどうか確かめることが肝要です」。
同氏は日本をはじめ、アジアの他の地域でもトップを務めてきた。退職後はどういうことに物足りなさを感じるのだろう。その答えはやはり控えめなものだ。「新しい文化に適応する必要がなくなることです。フィリピン人(や他国の人間)のグループと向かい合い、その国の文化を学ぶ。それが私にとって、いろいろな地域で仕事をすることの最大の喜び。つまり、人との出会いです。それこそが常に基本であり、ビジネスの全てと言えるでしょう」。
(文:デイビッド・ブレッケン 翻訳・編集:水野龍哉)