かつて広告会社は、挑戦する者にとって最後の砦だとされた。未熟な青二才でも仲間を見つけることができ、最後には天職に導いてくれる場所だとされたのだ。有名大学を出ていればそれに越した事はないが、学問上の資格が重要な意味を持たない場所だった。
今日、業界はずっと慎重になっている。大手テック企業に包囲され、コンサルティング会社の参入にさらされ、クライアントの要求はこのうえなく厳しく(コスト意識もはるかに強く)なっている。このような中で、業界では特定の、それもしばしば高いテクニカルなスキルを持った者が特に求められている。マーケターとしっかり関係を結び、マーケターが直面するさまざまな課題に取り組む能力も求められている。
ここで疑問だが、クリエイティブおよびメディアエージェンシーで働く人々にとって、マーケティング関連の学位は以前にも増して、価値のあるものとなっているのだろうか。
エッセンス(Essence)で、日本担当のメディア部門を率いるエリ・ピオトロフスキー氏は、かつて米国でエージェンシー側とクライアント側の双方で働いた経験を持つ。求職時に、書類審査を通過し面接へと歩みを進める上で、マーケティングや経営学の学歴を持っていることが役に立ったと話す。
第一関門を通り抜けるのに役立ったこととは別に、大学でプレゼンテーション技術やケーススタディーの作り方を学んだことは、マーケターが大事と考えるものを理解し、話し合う上で大変助けになったそうだ。
「マーケティングの理論的知識は、クライアントを理解して関係を築く上で助けとなりました。なんといっても、共通言語で話せるのですから」と語る。
同時に、批判的思考や問題解決技術、学ぶ熱意や、考えを明確に述べることのできる能力も重要だと感じるとか。「結局のところ我々は、人々の感情を揺さぶって、心を動かすという分野の仕事をしているのですから」
ピオトロフスキー氏はこういったスキルを、多くの分野の学問に認める。記憶する限りで最高だったチームプロジェクトには、さまざまなバックグラウンドの人が関わっていたそうだ。ビジネススクールを出た人間もいれば、エンジニアリング、生物学、言語学を学んだ人たちもいた。
「さまざまな視点があることで、いろいろな見識やアイデアを生み出すことができました。時には一般的とはいえないものもありましたが、ユーザーのジャーニーから始まって新規獲得、維持に至るまで、キャンペーンを成功に導くことにつながりました」
求人担当者の立場からみれば、求職者が売り込める学問上の資格はマーケティングの他にもいろいろある。香港のアドマークアジア(AdMark Asia)のマネージングディレクターであるレオナルド・ブレムス氏によれば、学士号レベルでは、「ふわっとした」マーケティングよりも、経理や会計スキルなど「ハードなもの」が好ましいと語る。
メディアエージェンシーにおけるキャリアには、「数量的なもの」がおすすめだとか。クリエイティブエージェンシーは以前に比べ「もっと数字的なもの」を重視するようになっているが、人文的知識、特に民族誌学や人類学といった分野に価値が置かれるとブレムス氏は言う。いずれにしても、実際に勉強した分野より、大学のレベルに重きが置かれやすいと話す。
「今のような形であるならば、自分の子どもにはマーケティングを勉強するようには勧めません。あまりにも曖昧な学問ですから」と氏は言う。
東京に拠点を置き、管理職向けのコーチングを行うゲイリー・グッドウィン氏は、日本ではマーケティングの定義が曖昧で、マーケティング関連の学位を持った求職者に会うことは、エージェンシー側でもクライアント側でもほとんどないと言う。彼によればもっと一般的なのが、マスコミ関連の学問を修めた人々だとか。いずれにしても、そういった学位があれば面接で少しは優位になると話す。「ブランディングの役割について知識や関心があることを示すものになるわけですから」
今の業界の問題解決において、マーケティング関連の学位を持つことは助けになるのだろうか。グッドウィン氏は、何を教えるかは大学や学部などによって大きく異なるが、デジタルのトレンドや流行に比べ見過ごされがちなマーケティングの基礎について学ぶ事は、何がしかの価値がある、とする。
だがグッドウィン氏によれば、数学や統計解析、プログラミング、UXデザイン(ユーザー体験のデザイン)といった分野を修めた人々に、エージェンシーが目を向ける明らかな傾向があるとか。
アジア太平洋地域のほとんどで、マーケティング関連の学位を持つエージェンシーのトップはまれだ。TBWA HAKUHODOの井木クリストファー啓介COO(共同最高執行責任者)は、マーケティングを学んだことがアカウントマネジメントの基本を理解するのに役立ち、「マーケターと知的な会話」をすることができたと語る。
一方、マッキャン・ワールドグループでアジアパシフィックのプレジデントを務めるチャールズ・カデル氏は、広告業界に入る前に英米やロシアの文学を学んだ。当時のエージェンシーの大方の考えは、「再教育の必要があるので、広告関連の学位を持った人間は必要ない」だった。
業界が興味を持っていたのはバランスのよい人材だったと、カデル氏は語る。どんなマーケティングを行うべきか、どんなプロセスで行うべきか、どのエージェンシーにもそれぞれの考えがあることを考慮すると、この姿勢は今も基本的には変わっていないと話す。
カデル氏は他にも、価値ある専門スキルがあると語る。プランナーならば心理学、社会学、人類学の知識が、他の分野ならコンピュータサイエンスやデータ関連の知識が役に立つだろう。
マッキャンは「トップ5の大学」から人を雇うのが普通だったが、今はその限りではないとカデル氏は言う。「もっと多様な人材が欲しいと思っていますから」というのがその理由だ。もちろん世界トップクラスの大学の卒業生がテック企業に惹きつけられている現状を思えば、そういった変化は全てに当てはまるわけではないだろう。だがエージェンシーは多様化するクライアントの要求に応えられるよう、自分たちが慣れ親しんだ領域の外に目を向けて多様な人材を見つける必要性を感じている。
「時代は変わりました」と井木氏も言う。「もちろんマーケティング関連の学位を持っていて悪いことはありませんが、それでこの業界で出世できる、できないというものではありません。我々が求めているのは、さまざまなバックグラウンドを持つ人材。我々のビジネスは、文化と調和してこそのもの。教室で、あるいは教科書から学べるといった類のものではないのです。さまざまな要因から多様な人材を求めており、業界外に目を向けているのです」
カデル氏が「強く勧める」のは、キャリアの途中でのMBA取得だ。これは特にインドで広く見受けられる傾向だ。「仕事を始めて最初の4年で必要とされるスキルは、その後の、あるいはシニアレベルになって必要とされるスキルとは大きく異なるものです。率直に言って、世界的にも経営陣はアカウントマネジメント能力にひどく欠けています。だが大事なのはMBA取得のタイミング。顧客に接し、問題解決にあたる時に取得してほしいですね」
「もし私が企業のトップで、ベインやデロイトのトップと競い合っているとしたら、彼らのバックグラウンドは、私のそれとは本質的に異なります。今私が必要とするのは、交渉や戦略におけるトレーニングで、これは15年前であれば必要としなかったものです」
究極的に必要なのは、自身の知識や能力を向上させ続けようという意欲だ。今日エージェンシーでキャリアを築きたいと思う者にとって、おそらく最も重要なもの。マーケティング関連の学問には、確かに何らかのメリットがあるが、比較的小さいものなのだ。
ピオトロフスキー氏は言う。「人を雇うとは、そのスキルや専門知識をミックスし、調和させ、補完させあうチームを作り、チーム全員の向上につなげるものだと思います。私は日々新しいことを学び、テクノロジーやトレンド、業界の動向にも常に通じているよう努めています。学ぶ情熱こそが私にとって大事なものなのです」
(文:デイビッド・ブレッケン 編集:田崎亮子)