東京の広告・PR業界で10年以上のキャリアを積んでいた豪州人のジェームス・ギャラガー氏にとって、当時の勤務先である電通Y&Rから提示された新たな雇用契約は決して満足のいくものではなかった。「会社を辞めよう」 −− 即座にそう判断した理由はほかにもあった。当時の仕事には生き甲斐を感じなかったし、大都市での生活にも疲れていた。加えて、いつか観光業で起業したいという夢も抱き続けていたのだった。
だが、自分の勇断に酔いしれている時間はなかった。生活のためのお金を稼ぐため、間もなく北海道・ニセコにあるゲストハウスにマネージャーとして就職。やがて2000年代半ばになるとニセコは投資ブームに沸き、その流れに乗って不動産開発会社のマーケターに転身した。しかし、2008年にリーマンショックが起きると再び失職。そして妻と数週間熟考を重ねた末、シーフードのレストラン兼販売所を北海道で立ち上げることを決断した。
「職を失うのはもちろん辛い。でも、素晴らしいチャンスにもなります」と同氏。今、自身の会社「エゾシーフード」の経営は順調だ。この事業を始めた頃は「広告界で働く栄誉」に未練を感じていたが、戻ろうと思ったことは一度もない。「クリエイティブの分野で培った経験をシーフードビジネスに生かすことができた。レストラン経営者は普通、ブランディングという概念をほとんど持っていません。ですからその点が強みになりました」。
「銀行員や会計士と違い、広告界の人間はビジネスにおけるブランドの重要性を理解している点が長所。私は10年間にわたっていろいろなブランドと仕事をし、その何たるかを学びました。ですから自分のブランドを始めたときはまず指針を明確にし、それに基づいてビジネスを築き上げた。事業が成功し、今も成長を続けている大きな要因の一つです」
「さまざまなタイプのマネージャーと働いたことも良い経験になりました。私が学んだのは、優秀なマネージャーというのは相手がクライアントであれ、スタッフであれ、サプライヤーであれ、問題が起きればすぐに対応するということ。ですから私もそういう心構えができていた。特に最初の1〜2年は多くの問題が起きると思っていましたから。実際にそうなりましたが」
今日の広告界はかつてないほど予算やマージンが縮小し、「ライトサイジング」に熱心な経営陣に誰もが戦々恐々としている。ギャラガー氏がこの世界で奔走していたときよりも、ずっと困難な時代になった。どのようなキャリアを持っていようとも、リストラは誰にとっても差し迫った問題だ。だが、広告代理店での経験を起業に生かす手立てはたくさんある。
新たなクリエイティブへの挑戦
起業にあたって大切なのは、ブランドが成功するため何が必要かを見直すことだろう。レイ・イナモト氏はAKQAのグローバルクリエイティブ責任者を11年間勤めた後、2015年にイナモト・アンド・カンパニーを設立した。同社は広告サービスではなく、企業が将来的にイノベーションを実現するためのサポート −− 「ビジネスインベンション」を提供するという方向性を明確にした。
他社との差別化のためには、「広告の仕事はやらないと宣言することが最も簡単でした」とイナモト氏。「エージェンシーをつくるつもりは全くなかった。これが我々にとって最善かつ最大の決定でした。今の広告代理店は短期的なプロモーションを繰り返すサイクルから抜け出せずにおり、個人レベルでの仕事への満足度は限られています」。現在は自身が「医者」のような立場で、クライアントのどこに問題点があるかを指摘し、その「対処療法」を提供するのだという。これまでユニクロやトヨタ自動車、全日空、サザビーズといった大手クライアントを獲得、この手法は成功を収めてきた。
広告界を離れた後アドバイザーとしての地位に就き、現場を取り仕切る者もいる。1990年代半ばからWPPグループに勤務していたデヴィッド・メイヨ氏は現在、ジャカルタに拠点を置くスタートアップ「ゲットクラフト(GetCraft)」のCGO(チーフ・グロース・オフィサー)だ。同社の業務はクライアントを独立系のクリエイティブサービスプロバイダーと結びつけること。加えて、専門的調査を手がける「グレースブルー(Grace Blue)」社の非常勤ディレクターなども務める。
メイヨ氏もイナモト氏同様、今は広告代理店の立場が弱まっていると指摘する。「頼まれたことは何でもこなす。ゆえに何が一番強みなのかはっきりしないのです」。
「いろいろなことをすればするほど、広告代理店は不要の存在になる。現場レベルではまさしくそうです」。だがゲットクラフトは「広告代理店と競合するのではなく、サポートし、ブランドと直接協働もする」。同氏がオグルヴィを辞めたときは、将来に対してポジティブな気持ちを抱いていた。だが同時に、広告代理店が「開拓者精神を失くし、自分の居場所はもうない」と実感していたという。「私は未来を見据えていました。広告界の人間がほかの業界でできることは非常にたくさんあります」。
「広告界のプロが持つ柔軟性がさまざまな状況で強みになる」と同氏。そして、「一つのことに凝り固まってはいけない」とも。慣れ親しんだ世界を飛び出して成功するには、できれば離職する前から「幅広い分野の人々と関係を構築しておくことが望ましいでしょう」。それはリンクトイン(LinkedIn)に囚われるのではなく、人間同士の自然な関係をつくることを意味する。「あまりにも多くの人々が、過ちを恐れて自分の殻に閉じこもっています。それゆえ、会社を辞めてから新たな人間関係をつくるのに苦労する。そういう人々をたくさん見てきました。前向きな考えを持っていれば、自分の助けになってくれるかもしれない人とコーヒーを飲みながら1時間ほど話をする時間はいつでもつくれるはずです」。
同氏はもともと人に会うことが好きだった。オグルヴィを辞めようと考えていたときには、この性格が多くの可能性を引き出してくれたという。個人的関係は大きな刺激となるので、「人々との対話にたくさんのエネルギーを費やせた」。出会いが新たなチャンスに結びつかなくても、その相手とは友人としての関係を続けられるよう心がけた。そしていったん事が動き始めると、自分にとっての優先順位がはっきりと分かっていたことが有益だった。「改めて言うまでもないのですが、最初に訪れたチャンスに飛びつくのではなく、仕事を共にする上で自分が好意を持て、尊敬できる人と出会うまでじっくり時間をかけることが大切です」。
“マッスルメモリー”
メイヨ氏は今もブランドにサービスを提供する立場だが、クライアント側に移るのであれば年齢的に遅すぎることはない。それが「個人的哲学」に基づく動機であれば、なおさらだ。昨年、東京に本社を置く遺伝子検査会社ジェネシスヘルスケア及びジーンライフのCMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)兼リージョナルゼネラルマネージャーに就任したミシェル・モメジャ氏は、英国やフランス、日本、シンガポールなどの広告代理店で20年間を過ごした。
同氏にとって全く新しい世界で戦略面を担うことは、発想の転換を求められる「大変革」だった。だが大きな成長の可能性を秘め、社会に貢献する機会を与えてくれる業界には強い魅力を感じた。「広告代理店勤務の頃に培った幅広い仕事への知見と分析力が、新たな分野の事業と消費者を理解するのに役立ちました。広告ビジネスの戦略を担当していたことも有益でした」。広告代理店での教訓は、情報を抽出して明快に提示する力を育ててくれたという。一般のビジネスマンは後者の要素に欠けていることがしばしばだ。
ブランド側で責任を担うことで、広告代理店の欠点にも改めて気づかされた。動きが鈍く、必ずしも結果を重視しない。一度プロジェクトが動き始めると、途中で修正することも苦手だ。モメジャ氏は今の会社に入ってから広告の世界に戻りたいと思ったことはまったくないという。「私は新たなチャプターを歩み始めたのです」。ただ、「広告代理店のプランナーたちの『知性』を直接感じられなくなったのは残念。クリエイティブでスマートなスタッフと仕事ができることは、常に喜びでしたから」。
「広告界は確かに刺激的」と話すマシュー・ゴドフリー氏は、広告代理店の経営で成功を収めてきた。だが一昨年、低GI(グリセミック・インデックス、血糖値を上昇させる速度の計測値)の砂糖を開発するシンガポールのスタートアップ「ニュートリション・イノベーション」のCEOに就任した。広告代理店のエグゼクティブにとってスタートアップは人気の高い転職先だ。オグルヴィのアジア太平洋地域チェアマンだったポール・ヒース氏は、ストリーミングのベンチャーを設立するためにブラジルへ。マッキャンのクリエイティブディレクターだったエリック・イングボルドスタッド氏はフィンテックの世界へと移った。もともと広告業界を懐疑的に見ていた同氏にとっては、ごく自然な転身だったのだろう。
ゴドフリー氏が広告界を離れた理由は、「世界の保健問題を根本的に解決できるチャンスを見逃せなかったから」。これまで、過去に取引していたクライアントや広告代理店を新たな会社のパートナーにできたという。
新しい業界にはどう対応できたのだろう。「広告というのは根本的にソリューションビジネスです。マーケティングの課題はクライアントによって定義づけられ、広告代理店は効果的なソリューションを作成・実行する。その過程で専門知識を習得しますが、こうしたスキルセットはさまざまなビジネスの課題解決に応用できる。特にスタートアップのような革新的ビジネスには有用です。『マッスルメモリー(筋肉の働きを脳に記憶させること)』も同じこと。唯一の違いは、新たな課題に取り組む心構えがあるかないかです」
自由な選択
新たな挑戦は、必ずしも広告界から完全に足を洗うことを意味するわけではない。多くの人々が人生の価値を改めて問い直した2011年の東日本大震災。ビーコンコミュニケーションズやサーチ・アンド・サーチなどの広告代理店でアートディレクターを15年間務めた瀬戸恵子氏も、その一人だった。広告界で消耗しきっていた同氏は、己のクリエイティブの才を料理への情熱や健康問題と結びつけ、より意義とやり甲斐のある仕事ができないかと思案。そしてニューヨークのナチュラルグルメ・インスティテュートに1年間留学、帰国後「ミケ(Mique)」という小さなビーガン料理のレストランを開いた。
レストランは瀬戸氏が一人で切り盛りする。シンプルなつくりだが、その空間は温かみに満ちた美学にあふれ、同氏の個性をよく反映する。「寛いだ雰囲気で私の手作り料理を供します。お客様にも気に入っていただいているようです。私が広告でやっていたマスコミュニケーションの仕事とは逆の世界ですね」。
レストラン経営者としての充足感を満たしつつ、同氏は広告の仕事も限定的に続けている。近々3カ月間ほど店を閉め、ニューヨークのビューティーブランドから依頼された仕事に専念する予定だ。新たなキャリアを踏み出したことで「リフレッシュでき、再び広告の仕事を楽しめるようになりました」。
「広告界に未練があることは認めたくなかったのですが、やはり若干感じています」と同氏。「(魅力があるのは)チームワークや作品の練度の高さ、大規模な展開力……マスコミュニケーションの持つ影響力ですね。私はやりたいことを成し遂げられずに広告界を離れた。ですからまだ広告への渇望とビジョンを持っています。今回の仕事は、やり残したことを実現する良い機会だと考えています」。
この仕事を終えれば、再びレストラン経営者に戻る。広告界で純粋にフリーランスとして働くことに対しては懐疑的だ。「多くのクリエイティブは、フルタイムで働くストレスから逃れる唯一の選択肢がフリーランスになることだと考えている」。フリーランスとなり、生活のために悪戦苦闘し、最後には孤立してしまう人々を何人か見てきたという。「フリーランスに向いているのは限られた人々です」。
だが、その流れはまだ続きそうだ。メイヨ氏は、広告界であろうが他の業界であろうが「適応性を身につけるために特定のスキルを磨くべき」という。「平均的な人は自分は何が得意なのか、会社に何をもたらすことができるのか、なぜその業界にいるのかということを真剣に考えねばなりません」。それはすべての世代に言えることだ。広告界には中高年の人々への差別があると見られているが、今後はより多くの年長者たちが能力を高め、自己をアップグレードしていくに違いない。
「クライアントは常に、広告代理店のチームに若干年長の人がいると安心するものです。絶対的に年長者に頼る、というわけではありませんが」。メイヨ氏は定年後の話題を口にしない。「引退してどのような楽しみがあるというのでしょう。湖を見渡すロッジを買い、お湯を沸かし、紅茶を飲む。それからどうなるというのですか?」。
「仕事を辞めないことです。少し歳を取ったからといって、引退する必要など何もない。年齢を重ねることは、自分が新たなバージョンに生まれ変わることです。エネルギーが少しでも残っていて、自分の能力に自信があるのなら、まだ『道半ば』ということなのですから」
経験者が語る、「転職を成功させるには」
マシュー・ゴドフリー(「ニュートリション・イノベーション」CEO)
「自分の持つ情熱が何であろうと、素直にそれに従うこと。これはどのような業界の、どのような地位にいる人にも当てはまる。『自分がやらなければ他人がやる』などと考えてはいけない。自分を賭けてみることだ」
ジェームス・ギャラガー(「エゾシーフード」オーナー)
「アマチュアであること、すなわち自分が選んだ分野で経験が不足していても恐れないこと。私と私の妻はシーフードの知識もレストラン経営の経験もほとんどなく、シーフードレストランを始めた。だが振り返ってみれば、経験のなさは我々にとって最大のアセットの一つだった。「プロ」と称される人たちが供するシーフードの質に幻滅していたので、我々は品質管理の点で独自の基準を考案。アマチュアは経験豊かなプロよりも強い情熱を持っており、まさしくそれこそ消費者が求めるものだ」
「一から始めることは独創性を大いに発揮できるチャンスとなる。広告界の人間は豊かなクリエイティビティーを持っているので、初心者であれば独自のルールがつくれるのだ。素の状態で飛び込めば、斬新でユニークなアプローチを実現できるだろう」
デヴィッド・メイヨ(「ゲットクラフト」チーフ・ビジネスデベロップメント・オフィサー)
「年齢が50歳以上で養う家族がいる人は、新しいキャリアに挑戦することは難しい。もちろんそれは、現実的に配慮すべきことがいろいろあるからだ。もし収入のことを一番に考えているのなら、自分のやりたい仕事で金銭的欲求を満たすことは不可能だろう。私は、転職とは自分が楽しめる仕事をしつつ、ある程度の収入を得ることだ考えている」
瀬戸恵子(レストラン「ミケ」オーナー)
「将来のことを心配して現状に甘んじるよりも、心底やりたいと思ったことをトライする方が後悔は少ないと思う。試してみて失敗したら、またほかのことを試せばいい。ただ、若いときに転職した方が新しいキャリアを積む時間がたくさんあるので、有利なのでは。私は自分の挑戦に満足している。今は昔ほど収入はないが、収入の良し悪しには慣れるもの。私は仕事のために仕事をするのではなく、仕事に大きな喜びを見出すことを選ぶ。今はこれまでになく幸せを実感している」
ミシェル・モメジャ(「ジェネシスヘルスケア」「ジーンライフ」CMO及びアジア太平洋地域GM)
「自己改革を続けること。私は広告界で20年間を過ごしたが、2〜3年に一度は新しいスキルを身に付けてきた。決して一つの分野にこだわってはいけない。広告代理店ではクライアントの仕事の全体的運営に関わること。それによって仕事管理やチーム編成の仕方、究極的には説明責任の果たし方を学ぶことができる」
「クリエイティビティーは素晴らしいが、今日では効率性と成果をどのように向上させるかが鍵になる」
「テクノロジーやデータ、デジタル、コンテンツ、クリエイティブなどに情熱を持ち、それらを新しい領域に適用させること。実際それはとても楽しいことで、組織を大きく変革することができるのだ」
「社会のためになるような仕事をすること。私はさまざまな分野の仕事をしたが、医療・健康分野は人のためになり、充足感を得られる」
(文:デイビッド・ブレッケン 翻訳・編集:水野龍哉)